「形而上学を社会化する」へ「神経科学と哲学」は中止

とてもではないが、現在の日本の知的レベルでは高級すぎる。

1980年代の心の哲学の議論も踏まえないで脳科学やら人工知能やらお話にならない。

基本的に脳は生物学の器官であり、生物学的な背景からの進化論的産物であるという単純な前提もわからないままだ。まあ論じても徒労感におそわれるので書かない。

それに代わり、ぜんぜんイケてない社会学のオルターナティブである社会の哲学についてやる。とうとうできそうな気がしてきた。サールの集合的志向性は、方法論的個人主義には有効だが、ほとんどの社会科学が扱うような一見客観的な事象をすべて派生的副次効果で片づけている気がする。

それを踏まえて議論が深まった、フレデリック・E・シュミット編「形而上学を社会化する:社会的現実の本性」(Socializing Metaphysics: The Nature of Social Reality)をゆっくりやるつもりだ。

この10年哲学は社会的世界 - 社会関係、社会的実体、社会性それ自体 - への伸展する関心を見てきた。社会規範、慣習、規則、役割についての形而上学において多くの議論があった。大量の注意が集合性 - 社会集団、アソシエーション、企業法人 - の本性に集まった。認識論者は、社会関係に関する知識の依存性に困惑してきた。そして倫理学者や政治哲学者たちは集団的責任や集団の権利を探求してきた。この本の各章は、社会の形而上学における問題を提起する。

 事実上、社会の形而上学におけるすべての議論は個人がどのように社会的関係や集合性に現れるかに変わった。カギとなる問題は社会的関係が非社会的関係や個人の特性以上の有意義な何かになるかどうか、集合性が非社会的関係にいるメンバー以上のものになるかどうかである。「個人主義者」は社会関係や集合性が個人の連合や非社会的関係以上のものになることを否定する一方、その敵対者 - 「全体論者」(holist)、「集合性主義者」 - は反対を肯定する。この本の一部は個人主義と全体論(holosim)間の議論に貢献する。個人主義者と全体論者間の議論の根底にあるのは、われわれが社会関係や集合性から独立して個人を理解できないというルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによって影響された一部の哲学者たち - 著名なのはピーター・ウィンチ(1990) - によって古くから疑問に付された仮定である。この仮定は、単に個人が考え、行為し、言語を話すような特性をもつため、個人は社会関係や集合性にすでに拘束されているということを理由に否定されてきた。この本のふたつの章は思考、行為、言語の発話が、社会関係や集合性とは独立に理解しえるという仮定を解決する。

 個人主義者とその論敵の間の議論は、われわれの社会的か、でないかとしての共通の問題の素朴な分類に大ざっぱに後退することを仮定しがちであった。だが、「社会構成主義者」は人種、ジェンダーのような非社会的であると素朴に見なされる世界の諸側面が、社会的に構成されているという洞察に変えると論じた。どの程度社会性は明らかな非社会的世界におよぶのかという疑問がある。また社会構成主義者のこれらの現象の説明が本当に自然主義者の説明と相いれないかどうか疑問もある。この本のふたつの章が、社会構成主義について論じる

 この序論で、私は社会の形而上学における重要な問題の基本構造をレビューする。私は社会関係と集合性が個人とその非社会的関係の受けの世界に何かを付け加えるのかどうかの問題から始める。

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